2016年3月
国立精神・神経医療研究センター 理事長 樋口輝彦
向精神薬の歴史はたかだか半世紀である。しかも、その出発点は偶然の出来事であった。今日でも使われている抗精神病薬のクロルプロマジンが向精神薬の原型であり、その登場は「精神科医療に革命をもたらした」と評価されたが、これは偶然の発見によるものであった。
クロルプロマジンは最初、麻酔薬として開発されたが、意識レベルを下げることなく鎮静させる効果があることから、統合失調症にためしに使われ、精神病症状を改善することが見出されたのであった。クロルプロマジンの発見で精神科医療は様変わりしたと言われる。確かに隔離・収容の時代から、リハビリ・社会復帰の時代へと変化させる上で大きな役割を果たした。
この薬の作用点、作用機序がわかれば、病因に迫ることができるのではないかと多くの研究者が薬理研究に取り組んだ。「精神薬理」という専門領域が生まれ、国際神経精神薬理学会が誕生したのも、クロルプロマジンの発見によるところが大であった。
しかし、作用機序研究はさほど簡単ではなかった。確かにドーパミン仮説が生まれ、この仮説をもとに数多くの抗精神病薬が合成され、臨床に供された。しかし、ドーパミン仮説で統合失調症の病態のすべてが説明できることにはならなかった。ドーパミン以外の神経伝達系の研究も行われ、興奮性アミノ酸系やGABA系などの関与も提起されているが、まだ確たるものにはなっていない。
「脳とこころの健康大国実現」をスローガンに国は統合失調症や双極性障害、うつ病など精神疾患の根本治療法の開発を期待しており、この領域の研究者は研究成果の最大化を目指して日々注力している。根本治療法を樹立するためには、本来、その疾患の成因が明らかでなければならない。最もオーソドックスなアプローチは病因遺伝子の同定、その遺伝子の改変動物モデルの作製、生成される異常蛋白の確定、これを抑えるコンパウンドの合成、臨床試験という手順であろう。多くの遺伝性疾患はこのアプローチによって根本治療法に到達する道筋を歩んでいる。ところが、精神疾患の多くは、このアプローチが通用しない。その最大の理由は単一の原因遺伝子によって生じる疾患ではないことである。遺伝子の関与はあることは想定される。多数のリスク遺伝子も同定されている。しかし、これだけで疾患が成立するわけではない。リスク遺伝子が存在しても発病するとは限らず、環境要因の関与も想定せねばならない。
では、どのようなアプローチが有用なのか。動物モデルからの出発にあまり期待できないとなると、動物にトランスレートできる患者から得られた生物学的マーカー(トランスレータブル・バイオマーカー)を手掛かりに動物病態モデルを作成し、これを改善できる薬をスクリーニングする方法を適用することが近道になる。また、昔から精神疾患の病因で論じられてきた「遺伝と環境」の問題が、環境が遺伝子の発現に影響を与える、すなわち「エピジェネティクス」研究の進展で新たな局面を迎えることへの期待も高まっている。
その一方で、レアバリアントの研究への期待も大きい。精神疾患がヘテロな集団であり、症候群であることは、今日ほぼ常識になっている。同じ症状を示しながら、異なる遺伝子変異で規定される症候群ととらえると、レアな遺伝子変異をもつ一群を取り出し、その遺伝子を手掛かりに、その病態を明らかにするレアバリアント研究は重要であろう。
いずれにしろ、精神疾患の病因に基づく根本治療法の開発は21世紀の医学の最重要課題のひとつであることは間違いない。